何故、「一人になる」なのか?
小笠原登さんの生涯をハンセン病強制隔離政策の歴史のなかでたどる映画が完成しました。タイトルは「一人になる」です。これは小笠原さんを一言であらわした言葉です。このタイトルの背景をお伝えいたしたいと思います。
「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟(ハンセン病国賠訴訟)は、島比呂志さんからの九州弁護士会連合会宛ての一通の手紙が契機となって始まったのである。その島比呂志さんは、訴訟の最初に、まだ実現していないようですが、このように述べられていました。
国際医療センターが完成しました暁には、その玄関前に、日本の誤ったらい政策を変革した小笠原登、大谷藤郎両博士の銅像を建立したいと夢みています。私はこの裁判に、花を添えたいのです。
「意見陳述書」(島 比呂志)
原告側がハンセン病国賠訴訟で国に勝ったのは、
1931年の段階において既に、京都帝国大学医学部講師であった小笠原登が「らいに関する三つの迷信」と題する論文を発表して、正しい病因論に基づく、正しいハンセン病対策を立てるよう訴えていたことは忘れてはならないと思います。小笠原氏は、何らハンセン病対策がなかった明治時代においても患者数が確実に減少していることや、同居している家族でも大多数は感染しないといった疫学的事実から、ハンセン病の伝染性は極めて微弱であり、発病には感染した個体の側の要因が大きく関わっていると主張しました。(中略)その人体側の要因すなわちハンセン病に対するかかり易さが、環境の変化によって消滅しうるものだとの考え方は、現在の医学的常識に一致するものです。小笠原氏は、今から60年以前に、このことを見抜いていたのです。
「証人 和泉 眞藏 意見書」
そこには「癩絶滅・絶対隔離」という国策で孤立無援ともいう中であっても「一人になる」、一人になって人間と人間との水平な出会いをこそ大事にされた、小笠原さんがおられたのである。その小笠原さんとの出会いを踏まえての、大谷藤郎さんの国賠訴訟での証言である。その証言も、原告側被告側両方から求められたなかでのことである。それについて次のように言われている。
裁判に出るときは、打ち合わせをしてわかりあった形で証言台に立つのが通常ですが、私は両方の側に打ち合わせをすることをお断りしました。なぜならば、対立した立場の両側に立たされたわけで、それを使い分けるというのは一人の人間として難しいからです。その代わり、私は両者に向って「どんな質問をしていただいても結構です。自分が覚えている真実のすべてを正直に申し上げます。何を質問されても構わない」と申しまして、裁判の証言台に立ちました。
『医の倫理と人権』(大谷 藤郎)
そして証言台で大谷さんはまさに「一人になる」一人になって、同時に自身の生き様を通して、いわば非僧非俗の精神「非(ぶれない)」証言をされたのである。これらのことを受けて、徳田靖之弁護士は、この映画「一人になる」で語られている。
和泉先生は小笠原登先生の後継者として京都大学の外来を担った方で、まさしく和泉先生が医学的な見地から隔離政策がいかに誤っていたかということを余すところなく明らかにしてくださった。なおかつ当時国家公務員という身分、現職の国立療養所の医師という身分であって、国を相手の裁判で国を厳しく告発する証言をされたわけで、それはまさしく小笠原先生の生き方、医師としての在り方を体現されたんだと思うんですね。
そして又、
大谷先生は、原告だけの申請ではなく双方からの申請であれば法廷に立ちますというふうに言われて、そして私共とも国とも事前の打ち合わせなしに、法廷にぶっつけ本番で立たれたんですよね。だからその点が大谷先生なりの、決意の表れと言うか、自分が厚生労働省としてずっと行政を担って来たという立場でありながら、国を批判するという証言をするに際して身の置き所をきれいにしておきたかったっていう、そういう思いがおありになったんじゃないかと思いますけどね。この二人なくしてはあの勝訴判決はなかっただろう。そういう意味で小笠原先生のお弟子さん(注:大谷藤郎)と後継者(注:和泉眞藏)が勝ち取った裁判と言っていいのではないかと思いますね。
『映画「一人になる」でのコメント』(徳田靖之)
「一人になる」ことで、一人の患者と共に生きあえる世界を見出してこられた小笠原登さん。隔離と闘ってきたハンセン病回復者や、小笠原さんの精神を生きようとした後継者の足跡。その後を私たちも歩み続けていきたいと思います。
高橋一郎監督のもと、皆さまの賛同をもってこの映画を完成されることができました。この作品を一人でも多くの方に観ていただきたいと思います。各地での上映運動、学習会など企画していただけますようお願いいたします。
「一人になる」制作実行委員会